2017.2.21

上京してひとり暮らしと自分の店をはじめた街──大林凌さん#恵比寿

「住みたい街」といえば、やっぱり恵比寿。憧れの街であり、一度住んだら離れられない人も多いようだ。「ほかの街で暮らすなんて考えられない」という大林凌さんは、恵比寿でお好み焼き いまりを2軒経営している。大阪府豊中市生まれ、兵庫県尼崎市育ちの大林さんに、どうして東京へ?と上京の目的をたずねると、「なんとなく行ってみようと思って」と拍子抜けするような答えが返ってきた。

「いまから15年くらい前だから、22歳ぐらいですかね。横浜市の日吉に知り合いがいて、それを頼ってヒッチハイクして来たんです。西宮からトラックの運ちゃんに頼んで乗せてもらって。運ちゃんも面白がって乗せてくれましたね」

 お笑いコンビの猿岩石がヒッチハイクするテレビ番組が人気になり、その後も、同じような企画が放映されていたころで、それに影響されたというが、実行に移す人は珍しい。最初は間違えて仙台に着いてしまい、そこからまた東京までヒッチハイクをして、結局、5日間ぐらいかかったという。

「日吉の友人宅に8か月ほど居候させてもらい、アルバイトをしながらお金を貯めて、どうにか自立できました(笑)」

 当時、昼は青山のカフェ、夜は西麻布と恵比寿のバーをかけもちして働いていたという。はじめてのひとり暮らしに恵比寿を選んだのは、この街でよく食べたり飲んだりして、親しみがあったから。

photos: Kei Aotani

「家は恵比寿ガーデンプレイスと線路を隔てた反対側、日の丸教習所の近く。2階建てのハイツで家賃6万円くらいのワンルームでした。家賃は大家のおばあさんの家に持って行って手渡ししなければならなかったんですよ。『月に一度くらいは(店子の)顔が見たいから』って。めっちゃめんどくさい!って思ってましたけど(笑)」

 10年以上昔の話とはいえ、古くから恵比寿に住んでいる人たちは、そんな人と人とのつながりを大切にしているのだろう。「めんどくさい」と言いながら、大林さん自身も大阪の人情に通じるものを感じ、この街になじんでいった。

 だが、東京での生活は甘くはなかった。恵比寿に2年ぐらい住んだが、金銭的にきつくなって調布市の柴崎に移ったものの、そこでも生活が厳しくなり、ちょうど大阪の知り合いから「カフェの仕事があるから一度戻ってこい」といわれたのを機に、半年ぐらいで尼崎の実家に帰ってしまった。

先輩の誘いが運命を変え、お好み焼き屋に

 なにか目的があって上京したわけではなかったので、もう東京に出ることはないと思っていた大林さんに、尼崎に戻って1年が過ぎたころ、再び転機が訪れた。恵比寿に住んでいたときの職場の先輩から、「閉店するお好み焼き屋で商売をやらないか」と誘いの連絡があったのだ。

「尼崎の実家がお好み焼き屋で、母親が去年まで四半世紀やっていました。それを覚えていた先輩が声をかけてくれたんです。実家に帰っていたときも店の手伝いをしてましたし、恵比寿には土地勘もあって知り合いもいたから、お好み焼き屋をやればみんな来てくれるかな、という思いもありました」

いまり東京本店にて

 それが恵比寿4丁目の恵比寿通りに面した現在のいまり東京本店だ。なにしろ急な話だったから、貯金もなければ住むところもない。安いアパートでも借りようと思ったが、大家さんは店の近くにマンションを所有していて、店舗と部屋を両方借りてくれるならという条件だった。「マンションに2年は住むから、店舗の家賃を少し安くして」と交渉、両方を借りることにして上京した。銀行が融資してくれるわけはなく、実家からお金を借りて2008年8月に開業した。

「最初は夜だけでなくランチも営業していましたが、体力的にきつくて、そのうちに夜だけの営業に変えました。5年間、アルバイトも雇わず、ひとりで働いていましたね」

話してくれた人

大林凌 おおばやしりょう

兵庫県尼崎市出身。お好み焼き「いまり」オーナー。恵比寿に2店舗と4月には五反田店もオープン予定。実家の味を受け継ぐ関西風のお好み焼きだが、「いまり」流のオリジナリティもだしていて根強い人気を誇る。スタッフを集めて月に1回は試食会を行い、技術のブラッシュアップは欠かさない。出店ベースの店舗展開ではなく、味とスタッフ重視の、地に足の着いた経営を信条としている。

話を聞いてくれた人

田辺英彦 たなべひでひこ

旅行関係のガイドブック、ムックなどの編集制作を請け負う有限会社クロッシング代表。出版・広告関係の業界誌特派記者を経て、現在も自ら取材、執筆を行う。

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